1953年〈昭和28年〉1月4日) 秩父宮薨去
1980年(昭和55年)11月7日 トモさんと信子さまご結婚
1984年(昭和59年)12月6日 憲仁親王、久子様とご結婚、高円宮を昭和天皇より賜る
1987年〈昭和62年〉2月3日) 高松宮薨去
1988年(昭和63年)1月1日 三笠宮崇仁親王の次男宜仁親王、昭和天皇より桂宮を賜る
※戦後初の独身での宮家設立
1989年〈昭和64年〉1月7日) 昭和天皇崩御
1990年(平成2年)6月29日 ナマズとキツネが結婚、秋篠宮家を創設。
1993年(平成5年)6月9日に「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」が執り行われた。
2001年(平成13年)12月1日 第一皇女の愛子内親王が誕生。
2002年(平成14年)11月21日 高円宮薨去
2004年(平成16年)5月 徳仁皇太子「人格否定発言」
2004年(平成16年)5月 信子妃一過性脳虚血の発作
同年6月 雅子皇太子妃、適応障害で、療養に入る。
7月 信子妃、ストレス性喘息の治療のため別居、相馬家
(元子爵・実姉の婚家)の別邸にて療養。
9月
彬子さん、マートン・カレッジに留学
2006年(平成18年)1月 信子妃、新年の祝詞を述べるため一時帰京。
2006年(平成18年)2月7日 紀子の懐妊スクープ。
2006年(平成18年)8月17日~31日 皇太子ご一家、オランダへ、オランダをはじめベルギーや
ルクセンブルクの王族と交流。
同年8月 信子妃、2年ぶりに宮邸に戻る
同年9月6日 ヒサ凡(♂)誕生。
2008年(平成20年)暮れ 信子妃、気管支喘息で、入退院を繰り返す。兄姉の別邸で長期療養
2009年(平成21年)10月1日 彬子さん、立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェローに就任
2009年(平成21年)10月 信子妃、入院していた病院から、療養のため宮内庁分庁舎に移る。
2010年(平成22年)1月 彬子さん、オックスフォード大学大学院博士課程修了、博士号取得
2012年(平成24年)4月
彬子さん、ポストドクトラルフェローの任期が切れる
※2014年(平成26年)12月まで上皇明仁の幼稚園時代の学友で
銀閣寺(慈照寺)住職を務める臨済宗相国寺派管長の有馬頼底に
依頼し、宗教法人慈照寺研修道場美術研究員に就任。
2012年(平成24年)4月 彬子さん、心游舎を設立、翌2013年同法人の総裁に就任。
4月1日より2013年3月まで 立命館大学衣笠総合研究機構の特別招聘准教授
2013年4月から2014年3月まで 客員准教授。
2012年5月より法政大学国際日本学研究所(文部科学省国際共同に基づく日本研究
推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及
日本観の研究)の客員所員に就任。
2012年(平成24年)6月6日) トモさん薨去
寬仁親王が薨去する前に信子妃は何度も病院を訪れたが
「家族の意向」で全く面会できず、喪主の意向により
葬儀への参列も許されなかった
・彬子さんは
2012年6月6日に薨去した父・寬仁親王の斂葬の儀において喪主を務めた。この時は母・信子親王妃に代わって寬仁親王の姉妹(彬子女王のおば)である近衞甯子と千容子の助けや、彬子同様に若くして喪主を務めた経験がある東久邇信彦(元皇族)の励ましを受けたと、後に雑誌に寄稿[31]している。また、同手記では、寬仁の薨去をきっかけに、両親の確執から疎遠であった三笠宮本家(祖父である崇仁親王)との絆が強固になったことに、深く感謝している。
2013年(平成25年)6月10日 ※宮内庁「薨去にさかのぼり、親王家を廃止する」と発表。
従来の慣例では信子親王妃が当主を継承することに
なるが、長年別居が続いており、2人の子女とも
同居していないため、3人は三笠宮本家に合流
※宮内庁寬仁親王邸の名称を「三笠宮東邸」と改称
2013年(平成25年)6月12日 彬子さん、寬仁親王の後任として日本・トルコ協会総裁に就任。
2013年(平成25年)11月 信子妃、公務復帰
2014年(平成26年)4月
彬子さん、京都市立芸術大学芸術資源研究センター
特別招聘研究員&公益社団法人日本職業スキー教師協会総裁就任
同4月、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員、併せて同センター客員教授に翌年4月から就任した。
2015年(平成27年)4月より京都産業大学にて特別教授(日本文化研究所研究員)として勤務している[43]。
2014年(平成26年)6月8日 桂宮の薨去をもって桂宮家断絶。
信子妃、桂宮邸に弔問に訪れる
同年10月12日 信子妃、日本青年会議所第63回全国大会松山大会へ出席
同年10月29日 信子妃、オランダ国王夫妻歓迎の宮中晩餐会へ出席、
同年11月6日 信子妃園遊会10年半ぶりに出席、
2015年(平成27年)1月2日 信子妃一般参賀に出席。
2015年(平成27年)4月 彬子さん、中近東文化センター総裁に就任した。
同4月 彬子さん、京都産業大学にて特別教授(日本文化研究所研究員)
「赤と青のガウン」出版
2016年〈平成28年〉10月27日) 三笠宮薨去
2016年(平成28年)
百合子妃、三笠宮家の当主になる、93歳
2017年(平成29年)3月9日付 三笠宮記念財団がトルコ政府に認可される
2018年(平成30年)1月
彬子さん、総裁に就任
2019年(平成31年)4月30日、第125代天皇・アキヒト退位。
2019年(令和元年)5月1日 徳仁皇太子第126代天皇に即位、雅子様立后。
2019年(令和元年) 信子妃、ライフワーク日本童謡学会の名誉総裁に就任、
同団体を通じて被災地支援活動にも積極的に参画
2019年(令和元年)5月10日
彬子さん、日本ラグビーフットボール協会名誉総裁に就任
2020年(令和2年)4月 彬子さん、千葉工業大学特別教授および千葉工業大学地球学研究
センター主席研究員(非常勤)に就任
2022年(令和4年)11月19日 信子妃、乳がん手術。
2022年(令和4年)3月1日
彬子さん、日英協会名誉総裁に就任(寛仁親王薨去後は空席)。
2024年(令和6年)4月3日 『赤と青のガウン』文庫化ベストセラーに
同9月16日 テレビ朝日のトーク番組『徹子の部屋』に出演。
同10月29日 千葉工業大学名誉博士を受贈
2024年〈令和6年〉11月15日 百合子妃薨去
・彬子さんは
普段のマスコミとの会見は日本国憲法上の理由から伯父の政治家である麻生太郎の話を表立って話すことはないが、祖母にあたる崇仁親王妃百合子が高齢となり体調が憂慮された際には、その様子を本人の代わりにメディアによく伝えていた
同12月 彬子さん、第10回ミヤボン2024 大賞を受賞
2025年(令和7年)4月21日 彬子さん、『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』に出演
同9月、 彬子さん、トルコを訪問
同9月30日付 彬子さん、三笠宮家の当主となる。
信子妃は、「三笠宮寛仁親王妃家」として独立した生計を営む
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・ トモさんと信子様の別居の理由
偽ってアルコール中毒の治療を受けさせられたこと
・トモさんの〝男系男子〟 〝女系反対阻止〟
平成時代に入り憲法上の制約もあり、天皇および皇族が女系天皇の是非について自らの意見を公にする機会は限られている。寬仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、「あくまで公なものではない私的な見解」と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めた。
寬仁親王は、「(2000年以上の)歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張した。寬仁親王は男系継承を維持するための方法として
1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。
女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その人物に皇位継承権を与える。
廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。
昔のように「側室」(一夫多妻制)の制度を復活させる。自分(寬仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々実現性が乏しいと思うとも述べた。
を挙げた。
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彬子さんの就職を助けた一人はアキヒトさんだったんだね、びっくり。
トモさんの男系男子の考え方がそのまま彬子さんに行っているだろうから、これからも、アキヒト・ミテコ路線でいくのかな?
でも養子案は「あの秋篠が皇統を持っていくのはイヤだなぁ」という男系男子派の一部から出ているのではなかろうか?
やはり、生まれながらにやんごとなき身分で来たものを大事にしたい、マコどんの結婚から、潮流が変わったか?
三笠宮家の葬式や法事に、信子さまは強硬に排除するくせに、麻生夫妻は招くってのもどうかと思っていたけど、彬子さまの方から〝おじさま〟に擦り寄っていたのね。
後ろの方でパイプ椅子に座らせられてた元総理の写真を見て、やっぱり利用価値があるから呼んだのだろうなぁって思っていたけど。
まぁ、とにかく金銭的に独立させておけば、喧嘩にはならないかも。
ただ、トモさんの名誉職をいいとこだけまず取ってしまった彬子さんはともかく、瑶子さんはちょっとかわいそうかなって思った。