まず、北九州の田舎賞などと言ってしまって申し訳ございません。
ひらにひらに・・・ご容赦下さいませ。
https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/award/%e7%ac%ac12%e5%9b%9e%e5%ad%90%e3%81%a9%e3%82%82%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%83%95%e3%82%a3%e3%82%af%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e6%96%87%e5%ad%a6%e8%b3%9e%e4%bd%9c%e5%93%81%e9%9b%86
子どもノンフィクション文学賞
「見て、聞いて、調べて、自分の言葉で書いてみよう」
とありますね。
「自分の言葉で書いてみよう」とあるじゃないですか。
参考文献漏れなんて、ちゃんちゃらおかしい。
宮内庁はこんな風にほざいていますが。
参考文献なんて言葉はものものしいけれども、なんでショーライノテイノーさまは、観光パンフレットのようなものをパクったんでしょうなー(棒
だいたい、参考文献として出されたものがこれですから ↓
〈参考文献〉
二〇二〇年八月下旬小笠原諸島返還50周年記念誌
『原色 小笠原の魂ThespiritofOgasawaraIslands』
小笠原諸島返還50周年記念事業実行委員会 二〇一八
要するに、小笠原諸島返還記念事業の一つとして刊行された案内書一つだけで書いたわけですね。
そもそも返還記念なら、太平洋戦争・米軍に占領されたところから書かなくちゃ片手オチでしょ。
ナマズ父の専門書まで読みこなしていると言われているp
ゴユーシューな息子なら、もうちょっとマシな参考文献を探してあたりそうなものなんですが。
キコさん、学校で藤原道長の御堂関白記を習い、夏休みにわざわざ国立博物館の特別展に実物を見に出かけられたという敬宮さまに負けてまっせw(煽りデス)
はっきり申しまして、学習院初等科の卒業文集に載った敬宮様の文章の簡潔さ、お見事です。
学習院大学へ進路を決定された時の萌芽が過不足なく伝わってきます。
ただ、夢だの未来だの言葉を連ねるのではなく、学問をすることへの生真面目な態度が、初等科の学習の中で、ある種「叩き込まれていた」とも言えるのです。
それを私たちは喜びましょう。
ヒソヒソより2才年下ですが、小学生の部で佳作を取った坊やの作文を読みました。
驚きました。
重い知的障害を伴う自閉症と診断された小学六年生の作品です。
文中「打つ」とあるので、ITの助けを得ての作文だと思いますが、母親の愛情、先生方への感謝、そして読み手に(無知な私だけかもしれませんが)いくつかの「目からうろこ」の新しい発見を提供してくれる文章です。
文学も感動というこの「熱いもの」を与えてくれる芸術の一つだとすれば、ヒソヒソの文章は
観光パンフレットにもならない
駄作であると、私は思います。
唯一の「詩的な表現」がパンフからの剽窃だったのですから。
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ヒソヒソより2才下の小学6年生の作品。↓
小学生の部
佳 作「信じて!重度障がい者の学ぶ力」
横浜市立青葉台小学校 六年
第12回 自閉症という言葉を聞いたことはありますか?
今の時代ずいぶん知られてきた言葉なので知っているもしくは聞いたことがあるという人が多いかもしれない。
自閉症はいまだに原因が解明されてない先天性の機能障害だ。
僕は2歳の時に重い知的障害を伴う自閉症と診断され、と医者に宣告された。
僕の中にある言葉に最初に気づいてくれたのは母だった。
この子は知的障害が重いので大切にゆっくり育てていきましょうと実質何も理解できないのだから文字や数字の指導や勉強は必要ないと宣告された母は僕をどう育てたらいいのかとひどく悩んでるように見えた。
僕は焦った。
なぜなら僕はその時すでに文字の理解はあったし、話してる内容もほとんど理解してたし、勉強にも興味があり色々もっと知りたいと思っていた。
僕が2歳の時のことだ。
僕は何とかして母に僕は何も分かってない知的障害ではないと伝えたくて機会を伺っていた(2歳の子がそんなことを考えるかって?でも本当なのだから僕は事実として伝える)
ある日母と祖母の家に行った時、ある教材があった。
救急車やパトカー、消防車のサイレン音が流れてこれは何の音かな?と聞かれボタンを押して答える教材だ。
祖母は僕が何も分からないと思っているから生きていくための最低限必要なことしか教育はいらない「音が鳴るね」「面白いね」と僕に話しかける。
僕は今こそチャンスだ!と思った。
僕は母の手をがしっと掴み、ピーポーというサイレンの音の後にパトカーのボタンを母の指を使って押した。
正解!と音が鳴り響いた。
「え…」と母と祖母がびっくりしたのか呆然とした後「待ってこの子わかってる!」と興奮して叫んだ。
「じゃあこれは?」サイレン音を出す。
僕は母の指を使い次々と当てる(この頃の僕は自分の指や体をコントロールできなかったので母の指を使い答えを示していた)
「この子は馬鹿じゃない。話せないだけで色々わかってる!」そう言いながら母は僕の中に一筋の光を見いだしたのか、何か決意したかのような強い目で僕を泣きながら見つめていた。
それから母は僕が本当に理解しているのか確認する作業に夢中になって、毎日のように僕に問題を出し続けた。
車は飛ぶ?〇か×か、自転車より飛行機が早い?〇か×かなど。
僕は母の手を使い次々と当てる。
周りからは知的障害だと何も理解してないと言われ続けていたのだから母の驚き、興奮は相当なものだった。
そして絶望的な僕の子育てに希望を見いだした母は僕に毎日勉強を教え始めた。
言葉のカードをたくさん見せたり数字を何度もなぞらせたり。
僕は目線をその文字に合わせたりじっと集中したり反応することができなかったので、ちゃんと本当に聞いているかどうか母は分からなかったと思う。
それでも母は僕を信じ続け僕の中にある可能性、目には見えないけれど光る何か希望を疑いなく信じ、とにかく僕を毎日机に座らせ日々教材を増やしていき、熱心にひたむきに毎日僕の教育に励んだ。
表面的には変な声を出したりパニックや奇声を発したりとても知性のある行動はとれてはいなかった僕だったが、母は僕を知性の備わった子供として日々接してくれた。
おかげで僕は幼少期にたくさんの言葉や知識のシャワーを浴び、僕の内面は真っすぐにすくすくと成長していった。
僕が小学校に入学して不思議に思ったことがある。
教科書がないのだ。
僕は本が大好きだし理科や社会や新しいことを知れること、勉強を教えてもらえることにわくわくし期待していた。
でも支援学級では先生が僕に合わせた教材を用意していた。
幼稚園児が遊びで使うような絵カードやおもちゃやまるで何も理解してない赤ちゃんと接するようなものばかりだった。
僕はショックだった。
僕が話せないから?
目線も行動も言われたことに無反応だから?
その外見の現象だけで何も理解してないと判断される。
もっと言うなら知能検査の成績だけでIQの数字だけで重い知的障害があり何も理解できてないと判断されてしまう(自分の動きをコントロールできない自閉症児の正確な知能を判定するのは不可能だと思う)も。
勉強は人生を豊かにしてくれる。
人格を形成するのにとても大切なことだ。
何度も言うどんな子供にもだ。
決して差別してはいけない。
なぜ話せないだけで勉強は必要ないと決めつけるのだろう。
どうして決められた検査だけでその子供の全てが判ると判断するのだろう。
百人いれば百人とも違うのにどうして一つの検査だけで全てを判断できる?
もし重い知的障害があると判断された子が本当は色々理解していたら?
実際僕はIQは低いが小さい頃から毎日訓練を続けこうやって文章を綴っている。
もちろん全ての子を見誤ってるとは言わない。
でも中には僕のように実際は色々理解していたら?
現在知能を計る検査方法は主に田中ビネー式が使われている。
田中ビネー式とは心理学者の田中寛一が昭和二十二年に発表し度々改訂しながら現在も使われている検査方法だ。
昔と違って自閉症については新たなことが色々分かってきているのに改訂されているとはいえ、ずっと同じ方法で知能を計っているのだ。
この検査方法勉強はどんな子供にも必要だ。
例外なくどんな子供にだと口頭で答えられない子や体をコントロールできない子には解答がほぼ不可能なので正確な知能の結果を出せないと思う。
内面や人格の豊かさ本当の意味での知性を計るのは難しい。
僕はこの検査が何よりも苦手だった。
何せ車はどれ?と聞かれそんなの分かるに決まってるって思ってるのに、頭では分かっているのに体が動かないのだ。
まるで頭と体を繋ぐ重要なコードが切れてしまってるような感覚?
指を動かしたくても指が指に届かないのだ。
結局僕は車を指さすことができない。
そしてああ分からないのねと判断されてしまう。
車がわからないわけないじゃないか!僕は間違った判断をされたことに動揺し落胆しそして悪いことにこうなるとどんどん集中力を失くし、より体と心の制御がなくなる。
僕達がテストができないのは理解できないからではない。
思ったことを出力する手段がないからだ。
脳と体の指が上手く伝達しないだけで適切な訓練をすればきちんと教育できるのだ。
アメリカのテキサス州に僕みたいに言葉は発することはできないが、理解はしていて勉強の機会や教育を望んでいる子供達を集め教育する学校がある。
RPMという教育法だ。
僕も最初は二者択一から始めたのだがこの方法もまずは選ぶことから始める。
全く表現方法を知らない子に教えるのはもの凄いエネルギーを要する。
ソマ先生は子供の気持ちを奮い立たせるためにカモン!カモン!と何度も叫ぶ。
そこでやっと選ぶべき指が動くのだ。
そうやって内側にある知識や言葉を少しずつ引き出していく。
そして段階的に文字を指させるように導いてゆくのだ。
こうした方法で本来学ぶべき算数や歴史や化学など幅広い学科教育をして人格を育てていく。では日本ではこういった教育法はないかといえば実はある。
僕が教わった先生國學院大學の柴田教授だ。「柴田保之 東京大学教育学部心理学科を卒業後同大学大学院を経て國學院大學に勤務。専門は重度・重複障がい児の教育の実践的研究」プレジデント紹介欄より
柴田先生は障がい者支援をきっかけに約二十年前から言語表現の研究を続け言葉を発することができない人達のコミュニケーション方法を研究、実践している。
柴田教授は現場主義だ。
休みの日も支援学校などに出向き何とか言葉を引き出そうとあらゆる手法を試す。
手のひらに字を指で書かせようとしたりあいうえおの表を使ってみたり。
僕は柴田先生の指導で電子手帳で文字を打つ方法を教わり自分自身で何の補助もなく文章が打てるようになった。
柴田先生はいつも汗だくで休みも取らず毎回平気で四、五時間はぶっ続けで指導をしてくれた。変な話いつも無料でだ。
どんな人も平等に教育を受けるべきだという信念や決意がもう違う。
本物の先生だ。
頭が下がる。
世の中は日々変わっていく。
偉大な先生方が勇気を出し逆境を恐れずこの狭い閉じ込められた世界から輝く未来への扉を開いてくれた。
おかげで僕は未来を信じることができるようになり、自分の可能性や自分の存在が皆と同じように唯一無二であると、一人一人どんな子供もたった一度の人生を豊かと心から信じることができた。
僕は運よく僕の知性に気づき根気よく粘り強く強い意志で教育してくださる先生や家族に恵まれた。
でもまだ世の中には話せないだけでその内面に溢れている言葉や思いを出せず受けるべき教育を受けることができない仲間達がいるのだ。
僕はそれがとてももどかしいし悔しい。
今までの常識、知的障害が重く話せない=物事をほとんど理解してない。
この常識を覆すのは勇気がいる。
僕だって怖いし正直家や支援のある施設で大人しく守られて生きたほうが楽かもしれない。
でも人生は多くの経験があってこそ素晴らしいのだ。
心が震える物語に出会ったり、心が躍るような音楽に触れたり、難しい問題が解けた達成感、仲間達と喧嘩したり大笑いしたり…それが仲間と学べる醍醐味生きているという実感、喜びなのではないか。
人生とは興奮や驚きの連続なのだ。
成長できる喜び学で色どりのある冒険に満ちた人生にする権利があるのだ。
その素晴らしい機会を教育を僕達から奪わないでほしい。
だから僕はこうして打っている。
勇気を出して壁を破って。
変化には勇気が必要なのだから。
世界中の僕のような子供達みんなの閉じこめられた内面が開き、その子供に適した教育を受け人生が変わり、輝く未来をみんなが手にして欲しい。
僕だけが満たされても仕方ないのだ。
子供達が平等に教育を受けるチャンスに恵まれること。
仲間達が受けるべき教育を受けることができる為に僕はこれからも日々努力していきたい。
世界中で教育を受ける子供が増えることでより良い知恵や力が集まり世界がより良く変わる。
世界が今よりさらに素晴らしい発展をとげることができるのだ。
限界を決めてしまうのは簡単だ。
でも信じてくれる人がいたら自分はできると信じられたらその瞬間から人生は世界は変わるのだ。
僕は伝えていきたい。
全ての子供に学ぶ権利があるのだと。
そして全ての子供に学ぶ力があるのだと。
参考文献
「最重度の障害児たちが語りはじめるとき」中村尚樹
「自閉症の僕がありがとうを言えるまで」イド・ケダー
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訓練と学習で、いわゆる「文章語」が多用されているので、佳作なのだと思いますが、「待ってこの子わかってる!」の下りなど、お母さんがどんなに嬉しかったか、同じ母親として「わかるわぁ!」と思いますね(ホントに陳腐な感想ですみません)。
キコさん、もしこの感動があったら、アキシノ家は変わっていたかもね。
テンノーにする、それも絶対東大テンノー!
意味ねーじゃんと思うけど、それがあんたの「意味」なのね(やっぱり日本語おかしいわw)。
でも日本国民、そんなテンノーは嫌だから。
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